「晩御飯は手巻き寿司ですって」
と、コック不在のアクアリウムバーでナミが告げた。テーブルには酢飯の盛られた檜桶と具材の皿が、リフト周囲のテーブルに所狭しと並べられている。いちいち海苔で巻く手間を面倒がったルフィは、シロカジキの切り身をばくばくと口に入れていく。
「……コックは」
「食糧庫の整理をしてるわ。必要なものがあったら電伝虫で知らせて、ですって」
「うめェ! 醤油つけるともっとうめェ! こっちのピンクっぽいのもうめェ!」
今度はフタコブリの切り身に照準をあてた船長を拳骨で殴ったナミは、心配なら行ってきなさいよ、と上方をちらと見やる。
「誰が」
「自分がどれだけ酷いこと言ったかわかってんでしょ。サンジ君ああ見えて繊細なんだから、さっさと謝ってきなさい」
「そうだ、喧嘩をいつまでも続けてちゃいけねえぜ」
「そ、そうだぞゾロ。あれはオメェが悪い」
事情を把握していないフランキーやその場にいたウソップからも賛同され、ほうらね、と勝気な瞳が得意げになる。
「ちっ」
あちこちから責められゾロは天を仰ぐ。謝るとか謝らないとかの問題ではない。それに、例え謝ったとしてあのコックがはいそうですかと聞いてくれるかどうか。
とはいえ姿を見せない男の動向が気になる彼は、お節介な助言に従うことにする。
「あら、食事はいいの? ゾロ」
「ああ」
テメェが謝ってこいって言ったんじゃねえかとの言葉は飲み込み、魚介から漬物まで並ぶテーブルに背を向ける。手巻き寿司の存在を教えたのは他でもないこの自分で、そのときはまだ身体の関係はなかった。
故郷の師匠の家では、道場の門下生らが集まるとよくこの料理を出したのだと教えると、「人数が多かったり忙しいときには実に合理的なメニューだな」と感心した。「それとそれぞれの作り方を見てると好みがよくわかる。ナミさんは白身魚がお好みで、ロビンちゃんは香草多め。ルフィは置いといて、ウソップは米多めでチョッパーは卵巻きがお気に入り。てめェは赤身か漬物ばっかり食ってんな」と、料理人らしい感想を述べた。
あのときはアラバスタを出航した直後で、お互いのよそよそしさがなくなったばかりだったけれど悪くはない関係だったのだ。
少なくとも、目を合わせて話ができる程度には。
「おい」
食糧庫のドアを足で支え、ゾロは室内にいる相手に声をかける。
「……何だよ。用があるなら電伝虫で呼べっての」
作業の手を止めないサンジが、部屋の端に木樽を積み上げた。着痩せするせいかそう力のあるようには見えない彼は、ゾロ同様この船の労働要員として重要な位置にいる。さすがに食糧を扱っているとあって煙草はふかしていなかった。
「あークソ、思ったより小麦が減ってんなあ」
手元のメモになにごとかを書きこみ、次の島までメニュー構成を考えなきゃなあ、と独り言を呟く。
「おい、クソコック」
無視された形となったゾロは、若干語気を強める。
「……見ての通り、おれァ忙しいんだ。用があるなら手短にしろ」
「そうかよ」
こちらを向きもしない態度にイラついたたゾロは、ブーツの底をどかどかと鳴らして近づく。すかさず抜刀した刀を白い喉元につきつけ、躊躇した隙に腕を掴んだ。
仲間に刃を向けるという行為は尋常ではない。しかしこうでもしなければ相手の実力からいって、確実に逃げられてしまう。
「つ、っ……離せ!」
腕を捩じりあげれば強い視線で睨まれる。この目が見たかったんだと、ゾロは深い青をじっと見つめた。
「どういうつもりだ、お前。俺をずっと避けやがって。気に入らねえことがあるんなら直接言やいいだろうが」
納刀し、もう片方の手でサンジを壁に押さえつける。
「……教えてほしけりゃこの腕を離せ」
頼むでも縋るでもない静かな口調に、ゾロは冷静さを取り戻す。緩められた拘束から抜けだしたサンジは、痺れた自分の腕をさする。
「一流コックの黄金の腕を乱暴に扱いやがって。アホかてめェは」
煙草を口に咥え火をつけた彼は、ふーっ、と煙を吐いた。要禁煙のこの場所で吸うということは、よほど話しづらいことなのだろう。
「……おれが避けてるって、てめェ言ったよな?」
「ああ」
「その理由はまあ、単純っつーか、ありえねェ話なんだけどな」
そこでためらったサンジは、ダイニングルームに通じるドアを開ける。食料に煙草の臭いがつくから、だけが理由ではなかった。
「……いいか、これから言うことを聞いても驚くんじゃねェぞ」
「だから何なんだよ。いいから早く言え」
まだるっこしさにうんざりしたゾロが腕を組む。
「こっちはテメエの訳わかんねえ態度に苛々させられてんだよ」
「勝手に苛々してろよ。んっとに、てめェは我儘な野郎だぜ。じゃあ言うけどな、前にさ、おれに『ほかの野郎とも経験あるんだろ?』って訊いてきたことあったよな?」
「……そういえば、あったな」
あれは初めて寝てから何度かしてからだった。不意に、「この俺にヤらせるぐらいだから、男との経験もそれなりにあるんだろうな」と浮かんで、妙にそれが腹立たしかった。だから無遠慮に「俺はほかの男と比べてどうだ?」と尋ねたのだ。それに対するサンジの返事は「ほかの男なんていない」、つまり自分が初めての男で、それを聞いて苛立ちがすっと収まった記憶がある。
「どうせてめェは何も考えてなくて、思ったことを口にしただけだろうがな。仲間である野郎に簡単に股開くくらいだから、そういうことに慣れてんだろうって?」
「……いや、それは………、すまん」
「てめェからそう思われてもまあ、仕方ねェけどな。まあショックっつーか、それに動揺しちまった自分にショックだったんだ、おれは」
「……そりゃあ、どういう事だ?」
「………」
煙草の煙がダイニングへと流れていく。落ち着きなく煙草をふかしたサンジは、しばらくして決心したかのように息をついた。
「おれがてめェのこと好きだってことだ。てめェはおれのことをそういう風に見ていたとしても、こっちの事情は違ったってことだ。だからゾロ、こういう関係は終わりにしようぜ。てめェだって、自分に惚れてる野郎となんて、重いだろ?」
「何だそりゃ、一方的に決めんな」
「おれはな、ゾロ。これ以上自分が駄目になっちまうのが怖いんだ。まさかこのおれがてめェみたいな筋肉野郎に惚れるなんて、思ってもみなかった。でもそれは事実で、てめェの些細な言動に気持ちが浮き立ったり沈んだり、このままじゃヤバいと思う。だから頼む、もう昨夜みたいなことはやめようぜ」
「断る」
「断るって……随分なお答えだな。こっちは腹を割って話したってのに」
一瞬目を見開いて、それから呆れたように肩をすくめたサンジは、そういう奴だよてめェは、と眉間を指で揉んだ。
「なんにせよおれはもう続ける気はねェから。これからは、自分で処理するか島に乗陸するまで我慢してくれ」
「断る」
きちんとボタンのはめられたシャツの襟元をゾロは睨む。どんなに目をこらしてもその下にある鬱血を見えないが、それは確かに存在する。目立つ所には跡をつけるなと厳命されているので、シャツに隠れる範囲でしか噛みつくことができないのだ。
「そっちから誘っておいてやめようなんて、虫がよすぎるだろ。それに俺のことが好きだって?」
「ゾロ」
困惑のまなざしがこちらを見つめる。その視線を引きとめたくて、ゾロはなおも煽った。
「冗談だろ。テメエみたいな女好きがそんなこと、天地がひっくり返ったってありえねえ。大方ナミにばれたからってブルってんだろうが」
「違う」
「ただのコき合いの延長だって言っておけば、あの女も船乗りの事情はわかってるだろうし…」
そこまで言って腹に衝撃を受けたゾロは、後方へと吹っ飛ばされる。積まれた米俵に背中を打ちつけた彼は、それがクッションとなってたいした痛みもなく体制をたて直す。
「いきなり何しやがる!」
「出てけ!!」
船内に搾り出すような絶叫が響いた。
「てめェなんざ顔も見たくねェ! もううんざりだ!」
「ああ!?」
「もうネタばらしは終わりだ。とっとと消えろクソマリモ!」
唇をぶるぶると痙攣させるサンジの気迫におされ、ゾロはそれ以上の反論をやめる。目の周りを真っ赤にした相手の拳は固く握られ、爪が皮膚に食い込んでいた。
自分はどうやら反応を間違えたらしいと気づいたゾロはしかしどうすることもできず、ここにいても余計にこじれるだけと判断する。
「出てけクソ野郎!」
「……わかった」
喧嘩の際の売り言葉に買い言葉ではなく、サンジは本心から出て行けと言っている。そこにあるのは怒りだけではない感情だった。
後方甲板からダイニングの外周をまわったゾロは、微かに痛む腹をおさえ階段をおりる。
「あらお帰り。サンジ君とは仲直りした? ……その様子じゃ無理だったみたいね」
アクアリウムバーに入っていくと、ソファでふんぞりかえっていたナミがワインブラスをつまはじく。
「あんたの分残しておいてあげたわよ。ルフィから死守したんだから感謝しなさいよね」
そう言って示されたリフト脇の皿には、手巻き寿司がひとつ。
「………」
たったこれっぽっちで恩に着せようっていうのがこの女らしいよなと、指をくわえて見ている船長を牽制しつつ皿を取る。一応魚の切り身も薬味も添えてある寿司を眺め、おかしなものは混入されていないのを確認する。
「いらないんならルフィにあげるわよ」
「うるせえ、食うっての」
せっつかれ、多少の違和感を感じつつも醤油をつけて齧りつく。
「う、っ……」
しばらくしないうちに刺激臭がつーんときた。そしてそれは鼻全体に広がり、次いで器官を直撃する。
「どう? おいしい?」
にやにやと笑うナミから感想を求められ、それどころではないゾロは激しく咳き込む。とんでもない量の練りワサビが中に塗りこめられていたのだ。
水の入ったコップを渡され、ごくごくと飲む。そこでようやく落ちついた彼は、主犯であろうナミをきつく睨む。
「……テメェ。食いもんで遊ぶんじゃねえ。コックがいつも言ってんだろうが」
「あら、あんたワサビ好きだからサービスしたのよ。ねえ?」
同意を求められても……な反応をするウソップの反応から、おそらくこの女の犯行を誰も止められなかったのだろう。
そしてナミがこのようなことをした理由はおそらく、先程のサンジへの言動に対する意趣返しだ。女というのは感情でものを考えるから、こういった話題には特に口を挟みたがる。
普段サンジのことを邪険に扱っているくせに、いざとなると擁護の対象になるらしい。どうやらあれだけ下手な口説きを連発してくるくせに実は男と寝てました、に対する嫌悪はないようだ。
あいつにとっちゃ不幸中の幸いだよなと考えて、ゾロはあることに気がつく。
サンジはナミやロビンに「素敵だ」とか「君の虜」だとかは口にしても、「惚れている」とは、決して言ったことがなかった。