ミルクティ 3

 鍛錬を終え、ゾロは真っ先にラウンジに向かった。夏場ほどではないけれど、締め切った室内でのトレーニングで大量の汗をかいたのだ。あの、自分専用に用意されている補給ドリンクが飲みたくてたまらない。
 甲板におりた彼とすれ違ったナミが聞えよがしに「汗臭っ」と鼻をつまむ。とことんかわいくない女だ。これがサンジなら、同じ台詞を言ったとしても『汗だく達磨』だとか『シャワーを浴びてこい公害め』とか、まだマシな言い方をする。
「いや、そっちのほうがひでえ……だろ?」
 己の思考に首をひねったゾロはタオルで汗を拭う。きっとサンジの罵詈雑言を聞きなれてしまったせいで、このところその手の発言がないことに物足りなくなってしまってるのだろう。まったくあの野郎は厄介だ、と彼はラウンジのドアを押した。
「――で、おれはそこで言ったね。このおれには八千万もの部下がいる!ってな」
「で、ボコボコにされたってか?」
「違ェよ、そしたら……おう、ゾロ」
 ダイニングテーブルでパズルと格闘していたウソップが、こちらに目線を向ける。
「トレーニング終了か? まったく一日中ご苦労さん」
 鋼のような肉体への羨望まじりのねぎらいは、ゾロの耳を素通りする。以前ならここで「こいつは寝るか酒飲むか体動かすしか能のない奴だからな」とサンジの揶揄が入ってくるところだった。しかし金髪の男はこちらに背を向けたまま、キッチンで作業に徹している。
 ついさっきまで、ウソップとは楽しそうに話していたというのに。
「おい水」
 声をかければ無言でグラスを出してきて、液体のたっぷり入った保存瓶ごとカウンターに置く。
「おい」
「おれは今忙しいから自分でついで飲め」
 作業台に向き直ったサンジは、小麦粉の袋に手を突っ込んだ。
「何やってんだ?」
「見りゃわかるだろ」
「……蕎麦か」
 酸味のきいた自分専用の特製ドリンクをごくりと飲んだゾロは、めん棒で伸ばされていく灰色の生地を眺める。そっけない態度をとりながらも自分の好物を作るこいつは何を考えているんだろうと、黄色い後頭部を眺めた。
「……言っとくけどな、これはナミさんとロビンちゃんのための美容食だからな」
 こちらの物言いたげな視線を感じたサンジが、聞かれてもいないのに言い訳めいたことを口にする。
「何も聞いてねえよ」
「……あっそ」
 そっけなさを装う彼がどんな顔をしているのか、後ろ姿からは窺い知ることができなかった。おかわりのドリンクをやや乱暴に注いだゾロは、グラス片手にカウンターに肘をつく。
「俺らの分はあるんだろうな」
「そりゃあるさ。昼メシ食わせなきゃうるせェだろ、てめェら」
「昼飯は蕎麦か」
「ああ」
 くだらないことを聞くなとでもいう風に、サンジは鬱陶しげに返事する。伸ばした生地を重ねた彼は、麺切り包丁をくるくると片手でまわした。これは以前どこかの島の朝市の露店で見かけて購入したものだ。予算の足りない彼が金物屋と値段交渉をしているのを、荷物持ちとして待たされた覚えがある。
 料理は道具じゃねェけど、と照れくさそうに彼はこう言ったのだ。
「でもお前とか麺類好きでしょっちゅう作らされるんだから、一丁持っててもいいよな」
 と。

 そんなことをぼんやり思い出していたゾロは、とんとんと小気味いい音をさせる包丁の音に生唾がこみあげる。これから湯をわかして麺をゆであげるまで待たなければいけないと思うと、急に空腹感が襲う。
「もうちょっとかかるからな。腹減ったんなら海に飛び込んでプランクトンでも食ってろ」
 唾を飲み込む音を聞きつけたサンジが、沸騰した鍋に削り節を入れる。その削りカスでいいから食わせてくれねえかなと、ルフィめいたことを考えていたゾロは眉を顰める。
「……んだと、クソコック」
「料理中だ、相手する暇はねェからあっち行ってろって言ってんだよ」
 ひとさし指をびしりと外のほうに指したサンジは、出てけ、と短く呟いた。
「はあ!?」
 邪魔者扱いされたゾロは、背後のテーブルをちらと見やる。どうしてウソップはよくて自分は出ていかなければならないのだ。
 鋭い眼光にびくついた狙撃手は、じゃ、じゃあおれも甲板に……とパズルを片付け始める。
「いいんだウソップは。マリモと違って仕事の妨げにはならねェし」
 中断していた蕎麦切りを再開した金髪が、リズミカルな音とともに揺れる。昨夜だってこの髪はゾロの下でぱさぱさと揺れ、汗をかいた白い肌に貼りついていた。
 漂流生活の長かったゾロは、自分がそう性欲の強いほうだとは思っていなかった。ちょっと溜まってきたな、というときには自分で処理をしたり、賞金首を狩って懐が温かいときには娼婦を買ったり、毎日吐き出さなければ我慢できないということはなかった。それが、このところどうも悶々とする。あの身体を明け方まで組み敷いて出すものはきっちり出しきっているというのに、だ。
 それはこいつのこの態度にあるのかもしれねえな、とゾロは思う。行為の最中はあれだけ必死にすがりついてくるくせに、昼間になるとこうやって自分を拒絶する。
「おいどういうことだ、そりゃ」
 ゾロは苛々していた。どうして彼が自分を避けるのかがわからなかった。
「昨夜は俺にヤられて散々ヨがってたのによ。朝になれば用済みってか」
 えええ!とウソップが叫ぶ。
「まったくたいした野郎だぜ。ナミやロビンにあれだけメロメロしておきながら、夜になればケツに突っ込まれて喘いでるんだからな。女好きってのはカモフラージュか?」
 ひいいっ、とうしろでパニックになっている気配がする。そんなことはお構いなしのゾロは、更なる暴言を紡いだ。
「俺以外の男とヤったことはないって言ってたけどな、素質あるぜお前。もうケツだけでイけるもんな」
「出てけ」
 包丁がまな板に置かれ、サンジがこちらをゆっくりと振り向く。てっきり怒りに燃えていると思ったその青い瞳は、辛そうに眇められる。その表情は切なげだった。
「出てけ、ゾロ」
「コック……」
「出ていけ」
 有無をいわせぬ強さで命じられ、毒気の抜かれたゾロはよろよろと出口に向かう。
 まさかこんな反応をされるとは思ってもなかった。プライドの高い彼はこうでも言えば憤怒のあまり殺す勢いで蹴りかかってくるから、そうしたらこちらも本気で応戦すればいいと、それだけのつもりだったのだ。それが、まさかあんな顔をするなんて。
「……何だってんだ」
 ドアを閉め、戸惑いにゾロは頭を振る。自分はなにか重大な間違いを犯してしまったのではないかと、漠然と感じた。

 それから半時ほどして昼食の号令をかけられゾロがキッチンに戻ったときには、そこにサンジの姿はなかった。
「おい、あいつはどうした」
「あいつって?」
 薬味の蓋をねじるナミが、汚いものを見るような目で一瞥する。
「決まってんだろ、あのアホコックだ」
「もしかしてサンジ君のことかしら? 生憎あんたほどアホでも無神経でもないと思うけど?」
 七味をたっぷりと丼の中にふりかけた航海士は、いただきますと箸を持った手を合わせた。
「誰かさんがなにをトチ狂ったかルール違反を犯すから、気分が悪くなったんじゃない? 温かい蕎麦がいいんなら、あっちの鍋におつゆが用意してあるわよ」
 完全にすべてを知っている口ぶりに、ゾロはウソップに視線を向ける。ひいっ、と小声で叫んだ狙撃手は、ふるふると首を横に振った。
「ちょっと、ウソップ威嚇してんじゃないわよ。あのとき私医務室にいたの。聞こえたわよ」
 親指に絆創膏を貼ったナミが蕎麦をすすりあげる。ということはつまり、チョッパーもそこにいたということだ。
 女神と崇めている航海士と、そういうことにはまだ未成熟な(医者として知識はあるものの)船医に聞こえる場所であんなことを暴露されたのだから、それこそサンジはいたたまれなかったろう。
 だからあんな表情をしやがったのかと、ゾロは空いている席についた。