剣士とコックの事情

 「こんなことして、絶対に許さない」
 瞼を赤く腫らしたナミが見下ろしてくる。嗚咽をもらす彼女の肩に、ロビンがやさしく手を置いた。
「ごめん、ナミさん」
「謝って済むことじゃねェ」
 いつになく厳しい表情のルフィは腕を組んだままだ。
「こんどナミを泣かせたら、承知しねェぞ」
 麦わらにTシャツの定番恰好で部屋を出ていくうしろ姿を目で追って、ナミはぐすんと鼻を鳴らした。
「ルフィもすごく心配したのよ」
「うん、わかってる」
 ベッドに横たわるサンジの髪には艶がない。唇だってがさがさだ。服の下の身体は、想像以上に痩せているに違いない。
「ウソップとゾロが買い出しから戻ってきたら、ごはん作るから。なに食べたい?」
 そんなと身を浮かしかけるサンジを押しとどめ、とりあえず重湯から始めるのがいいとチョッパーが助言する。うわあナミさんの手料理と興奮する男の目の下にはあからさまな隈。非常事態だったにしろ、こうなるまで気づかなかった自分達にクルーの誰もが歯がゆい思いをしていた。

 絶望的な食糧危機だった。
 大海原航海にはつきものの問題とはいえ、今回はかなり切迫した状況だった。進めど進めど島影は見当たらない。食糧庫の備蓄が心もとなくなったところで、大しけに見舞われた。舵取りに奔走した彼らを待っていたのは、ひどい疲労感と傷ついた船体だった。
 ごめんな、ちゃんとしたものできなくて、とサンジが申し訳なさそうに言った。しかしボリュームには欠けても、心のこもった料理を口にすれば元気がわく。普段肉肉とうるさい船長も、決められた量に文句をいわなかった。おやつがなくなり三度の食事が二度になり、その量が目にみえて減っていっても、誰もどうしたんだとは聞かなかった。
 ――もうすぐ島が見える筈よ。
 航海士がそう言うのなら、それは間違いなかった。けれど、それから三日が過ぎた。
 ツキのないことに魚がまったく釣れなかった。デッキで釣り糸をたれるウソップがその声を聞いたのは、うつろな目を波間に向けていたときだ。
 いい加減にしろ!と怒鳴ったのは、どうやらゾロらしい。彼らしくもなく声を荒げ、このアホコック!と畳みかける。うるせェマリモ!と応戦しているのは他ならぬサンジで、こんなときによく喧嘩する元気あるよなぁと、ウソップは半ば呆れた。不穏なラウンジの様子にロビンが女部屋のドアを開ける。
 そのとき、待ちわびた言葉を見張り台のルフィが叫んだ。
「島だ!」
 わあっと喝采がとぶ。怒鳴り合いをしていたゾロとサンジも、甲板に出てきた。
「でかしたクソゴム!」
「おう!」
 得意満面の船長は、麦わら帽子をおもいきり振りまわす。
「あーよかった……」
 己の航海術には絶対の自信を持つナミといえど、不安は拭えなかったらしい。パンツが見えるのも構わずメインマストをよじ登り、交代しなさいよと上に向かって叫ぶ。
「ああ、ナミさん、そんな」
 両手で視界を覆ったふりをして指のすきまからしっかりとパンチラを堪能するサンジは、鼻血をふく寸前だ。そんな彼を忌々しげに睨んだゾロが上陸の準備にとりかかる。チョッパーが小走りでそれに追随した。
「サンジも手伝ってくれよ」
「お、おう」
 めったにない絶景に別れを惜しみつつ呼ばれたほうに向き直ったサンジの上体が、ぐらりと揺れた。
「サンジ!?」
 どさりとなにかが倒れる音に、皆の注目が一斉に集まる。
「やだサンジ君!」
「サンジ!」
 見張り台から身をのり出す者。
「コックさん」
 冷静に脈をとる者。
「いいい医者ぁ!」
「って、オメェだあ!」
 あわてふためく者。
「このアホは、ずっとメシ食ってやがらなかった」
 不機嫌さを隠そうともせず、黒スーツの痩身を肩にかついだ者。
 それらの反応を知ることなく、サンジは暗闇へと引きこまれていった。


「あぶないところだったんだぞ」
 栄養剤の注射を終えたチョッパーが傍らにちょこんと座る。
「ゾロが言うには、ここのところほとんど食べてなかったんだって?」
「二、三週間食わなくても平気だ」
 あの野郎、とここにはいない男に対して舌打ちしたサンジは、どうしてあいつにだけはバレてしまったのだろうと考える。
 わからないようにしてきたつもりだった。幸いクルー達と同じ食卓につくことは稀だったし、あとで食べると言って空腹を水で誤魔化すのは容易かった。いつもの華麗なステップで給仕しレディを褒めたたえ、嵐を乗りきり、海王類と戦う。栄養不足で顔色が悪いのは全員だったから、バレる筈がなかった。
 それが、ゾロだけは騙せなかった。
 おい、食ってんのか?と何度か質されたことがあった。ああ、と頷けばそれはまるきり信用されず、嘘つくんじゃねえと睨まれた。くだらねえことしやがってと舌打ちする彼も、それ以上は<追求してこなかったというのに。
 それが今朝方ささやかな朝食の片付けをしていたら、いい加減にしろ!といきなり怒鳴ってきたのだ。その意味するところがわかったサンジは、すかさずうるせェ!と応酬した。自分ひとりぐらいの食料を皆に分配したところでたいした量にはならないし、それを皆が喜ぶとは思わなかったけれど、そうせずにはいられなかったのだ。コックとして。それを無駄と指摘された気がして、ついかっとなった。
 ――コックの仕事に口はさむんじゃねェ!
 ――マリモのくせに!
 ――てめェになにが分かる!
 矢継ぎ早に叫ぶと頭がくらくらした。おい大丈夫か、とゾロがこちらに近づく。
 そのとき、島だ!と叫ぶのが聞こえた。次いで皆の歓声。ゾロを突き飛ばすように外に出て、ああよかったと安堵する。これで今夜はまともな料理を作れる。メニューはどうしようか。クソゴムは別として、いきなり重いモンはよくねェ。胃にやさしいリゾットにするかなと決めかけたとき、視界に霞がかった。
 サンジ!?と眼を開いたチョッパーの顔が最後に見たものだった。どうせならナミさんの下着を拝みながら意識を失いたかったぜと甲板に倒れたのは、さすがサンジとしか言いようがなかった。


 医務室まで運んでくれたのはゾロだと聞かされ、サンジは微妙な心持ちになる。不本意だがこの船の役割的にそうなるのだろう。あの馬鹿力にかつがれたと思うと癪にさわるが、ここは礼を言わねばならないところだ。しかし、仮にも自分のことを心配してくれた(らしい)その相手に対して、撥ねつけるようなことをしたばかりだった。
「うう……」
 膝立ててシーツに突っ伏したサンジには、ありがとうもごめんも言えそうになかった。これがルフィかウソップだったら違っただろうに。
「入るぞ」
ノックもせずに部屋に入ってきた男の声が、チョッパーと二、三言言葉を交わして短く笑う。そうだ、こいつはおれ意外だとこんな風に柔らかく笑うんだなとサンジは顔をあげる。
「じゃあサンジ、ゆっくり休めよ」
「ああ」
「栄養のあるもん食べてたっぷり寝るのが一番の治療なんだから、しばらくは仕事禁止。……っておれが言っても聞かないだろうから、ゾロ頼むな」
「ああ任せとけ」
「何でこいつだよ、おい?」
 交代で椅子にどかりと座った剣士を指さし、サンジは形ばかりの抗議をする。くすりと笑った船医がじゃあゾロよろしくと念を押し、医務室がわりの女部屋を出て行った。
「……えーと」
「ナミが粥を作った。ちったあ食え」
 気まずさに視線を泳がせたサンジに構うことなく、ゾロは盆に載せた土鍋の蓋を取る。ふわりと湯気があがった。
「あいつが作るのはテメェ程じゃねえが、まあうまい」
 茶碗に熱々の粥をよそう手つきは意外と慣れたもので、病人の世話をしたことがあるのかもしれない。それはともかく、この男は今なんと言っただろうか。
「おいてめェ……」
「ん? そういやまだ熱ィな」
「おれの聞き間違いじゃなかったら今………」
 そこまで言って、サンジは言葉を失う。普段自分の作ったものに対してうまいとも不味い(それはあり得ないのだが)とも感想を述べたことなどないこの剣士が、木匙にすくった粥をふうふうと冷ましていたからだ。
 あのゾロが。大剣豪という壮大な夢を持つ、けれど実生活では寝てばかりで役に立たないゾロが。抜けたところのあるくせ、大事な場面では筋の通った主張をする硬派なこの男が。病人に粥を食べさせようと『ふうふう』をしている。
 その驚きは、ナミの手料理を食べられる感動を凌駕した。
「な……」
 んでテメェがこんなことまでしやがる、と喉元まで出かかり、サンジは毛布をぎゅっと握りしめる。
 巧妙に隠していた自分の食事量に気づき。
 それをしつこいくらい問いただしてきて。
 最後には「いい加減にしろ」と詰め寄り。
 こうして看病だなんて柄でもないことをしている。
 そこから導き出されるのはおよそあり得ないような可能性で。しかし絶対ないとは言い切れなかった。
「なあ」
「ん?」
「てめェ……おれのこと好きだろ?」
 アホかといなされるのを覚悟でサンジは努めて軽く口にする。けれどゾロは否定もせず、いいから食え、と匙を突きつける。
「……へえ。そうなんだ」
「いいから黙って食え」
「おれのこと好きなんだ?」
「うるせえな」
 しつこく確認され、ゾロは眉をしかめる。それでも律儀に息を吹きかけて次の粥を冷ます。
「なあ」
「とっとと食え」
 無理やり粥を押しこまれ黙らせられたサンジは、にやにやと笑って相手の動向を見守った。

自覚手前も好きです。