水を出しっぱなしにしながらスポンジで食器を洗う料理人のうしろ姿を、床に道具を広げていたウソップが何度か見やってから、声をかける。
「サンジ、どうかしたのか?」
「いや」
 ぶっきらぼうに答えた相手は水をじゃあじゃあと流し続け、平素の彼はそんな無駄づかいをするようなことなどしないから、 ウソップはますますおかしいと感じた。先日もみかん畑の水撒きと称して「雨だぞー!」とホースを振りまわしていたルフィが 思いきり蹴られたところだ。この船の航海士のケチっぷりに心酔している彼自らがこのようなことをするなんて。船における 真水の貴重さを最も実感しているだろうに。
 しかもおかしいのはそれだけではない。
「袖がびしょびしょだぞ」
「……あ、ああ」
 言われてはじめて気づいたかのように、サンジは濡れたシャツに目を落とした。
「――出しっぱなしだぞ」
 その体勢でしばらく動かずにいる彼を促せば、まさにはっとした感じで蛇口を閉めた。
「なにかあったのか?」
 さすがに心配になってウソップは声をひそめる。年の差はあれど妙に気が合ってクルー内でも会話することの多いサンジと は、仲間であると共に男同士の信頼関係で結ばれていた。
「顔色も悪いみてェだし、チョッパー呼んでこようか?」
「いやいい」
「だったら心配事か? おれでよかったら話して……」
 そこまで言ってウソップは「ひっ!」と言葉を飲みこむ。こちらを睨んでくるサンジの形相が尋常でなかったからだ。
 もしかして触れてはいけないことに触れてしまったのだろうかと、彼はだらだらと汗をかく。けれど自分は大丈夫か?と尋ね てみただけだ。工具だってちゃんとビニールシートの上に広げて作業していたし、そんな殺意めいた視線を送られるようなこ とはしていない。
「……何しにきた」
「え? 何って……さっきからここにいるん、です、けど」
 つい敬語になってしまう自分の気の弱さを情けなく思いながらも、ウソップは上半身を後退させる。ありえないことだが万が 一、もし攻撃されたとしたらこの座りこんだ体勢は非常に不利だ。逃げるのに。
「喉が渇いた」
「――って、……え?」
 おれとお前は仲間じゃねェか、その仲間に殺意を覚えるってのはナシだろ、と本気で命乞いをしかけたウソップは背後を 振りかえる。
「……ゾロ」
 なぁんだ、と彼は安堵する。サンジの視線の先にいたのは自分でなく、つまり殺意を覚えているのはこの剣士に対してだっ た、ということだ。
「腹も減った。食うモンねえか」
「ねェよ」
 サンジの眼光がますます鋭くなる。ほっとしたのもつかの間、不穏な空気にウソップはおいちょっと待てと焦る。 彼らの喧嘩を止めるなんて命知らずなことをする気はないが、船が破壊されるのは避けたい。
「なあサ、サンジ、服着替えてこいよ。風邪……ひくだろ」
 逡巡したのち諍いをやめさせる方法として、どちらかをここから追い出せばいいのだと思いつく。我ながら頭いいなと感心し ているウソップの脇を、ゾロがずかずかと通った。
 俊敏な動きでサンジの手首を捕らえた彼は、水のしたたるシャツの袖をべろりとめくりあげた。
「ちょっ! てめ、離せ!」
「――ああ、こりゃ見せるわけにはいかねえよな」
「クソ! 離せクソマリモ!」
「白いから余計目立つな」
「この……」
 怒りのあまり言葉すら出なくなったサンジの腕がぶるぶると痙攣する。その手首にくっきりと浮かぶのは赤い縛り跡。
 呆気にとられる傍観者を気にもとめず、ゾロはにやりと笑った。
「おい、着替えに行くぞ」
「離せ!」
 至近距離では威力がないのだろう、腰骨のあたりを蹴られてもゾロは平然としている。
「てめ! クソ、このゴウカンマ!」
 罵倒をくりかえすサンジが最終的には部屋の外へと引きずられていった。
 ぎゃあぎゃあとまだ騒いでいる声が届くが、ウソップはその場に留まる。
「………」
 誰か早くここにやってきて、自分に話しかけてくれないだろうか。そうでなければあの五文字の単語について考えてしま うではないか。この際ナミの悪徳錬金術でも構わない。
 サンジの手首についていたあの跡はもしかしなくても縄で縛られたものだろうなぁと考え、ウソップは工 具に油をさした。